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■サンデーナイトギタリスト第17回★Char

日曜日の夜だけ、ギタリスト評論家になる長谷川博之です。
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今回は「サンデーナイトギタリスト第17回★Char」。


お待たせいたしました!全国のChar(チャー)ファンの皆様!
私世代の男性ギタリストに、絶大な人気を誇っています。


恐らく彼は、日本一かっこいいギタリストです。
独断と偏見によるものですが・・・


デビューしたての頃は、
フェンダーのムスタングをメインギターにしていました。


数多いCharのアルバムの中で、私が一番好きなのは
日比谷野音でのライブ盤「FREE SPIRIT」です。


確か、日比谷野音の入場者記録がこのアルバムです。
残念ながら良さそうな動画ないので、スタジオ晩から代表曲の「Smoky」を。



歳を重ねるたびにカッコよくなるChar。
実は、私の娘も大ファンなんです・・・


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ギターは素晴らしい!今夜のギタリストも最高!
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■ロングセラーな人

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今回は「ロングセラーな人」。



先日、二十歳になる息子がこんなことを。
「Char(チャー)の曲で、おすすめのを教えてくれ!」と。


「ん、ん、ん、Char?
とうとう目覚めたか!フ、フ、フ・・・」


まさか息子が、Charを聞くとは思わなかった。
若い人のためにCharのミニ解説を。


1955年生まれの55歳。
ギタリストでシンガー、本名は竹中尚人。


経歴はいっぱいあるので、詳しくはウキペディアを。
http://ja.wikipedia.org/wiki/Char


もう7〜8年前に、
娘にCharのコンサートに誘われたことがあった。


この時も驚いた。
何でCharのことを知っているのだと・・・



Charがメジャーデビューしたのは35年前。
娘も息子も若かりしCharは知らない。


ただ、娘も息子も、
Charは容姿も音楽もカッコイイと言っていた。


本当にロングセラーな人なのだ。
私も35年もの間、大ファンだ。


時代を超えている点では、
仮面ライダーやウルトラマン級だ。


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ヒット商品より、ロングセラー商品です。
ロングセラーを生み出す工夫をしていますか?
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■大好きな“松原みき”のこと

こんばんは!



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今回は、「大好きな“松原みき”のこと」。


このブログで、書こう書こうと思っていたが、
なかなか書けずにいたのが「松原みき」。


若い人は知らないと思う。
最近、私と同じ年代でも知らない人が多い
ということが判明。



職業は、歌手・作詞家・作曲家だ。
2004年10月7日に44歳という若さで亡くなっている。


1979年11月、当時19歳だった松原みきは、
「真夜中のドア〜Stay with me」という曲でデビューした。




歌謡曲&アイドル全盛の時代にあって、
何ともおしゃれな曲と抜群の歌唱力がウリだった。


自動車にたとえれば、
サニー全盛の頃、ポルシェに乗っていたような感じか・・・


これは、「竹中尚人(Char)」の
ファーストアルバムの時もそう感じた。
段違いのかっこ良さだ。


デビュー曲「真夜中のドア〜Stay with me」は、
30万部のヒットとなる。


その後、「ニートな午後3時」は、
資生堂のキャンペーンソングとしてCMに使われた。




結局、シングル17枚とアルバム15枚をリリース、
1990年代は歌手活動を停止し、CMソングやアニメソングの
作曲家・作詞家として活躍した。


代表的なものに・・・


●國府田マリ子の「雨のちスペシャル(作曲)」
●機動戦士ガンダム0083 STARDUST MEMORY(作曲)
●機動戦士ガンダム0083 ジオンの残光 主題歌(作曲)
●ご近所物語 主題歌・挿入歌(作曲)
●おジャ魔女どれみシリーズ 挿入歌(作詞・作曲)
●ウルトラマンガイア 主題歌(作曲)


などがある。
プロフィールは、こんなところである。


彼女の死を知ったのは、死後3年後だったと思う。
高校生の頃から大ファンである私は、
数年に1回、彼女の歌声を無性に聞きたくなるのだ。


ネット上には、ほとんど語られることのない
彼女の素顔が語られているサイトがいくつかある。


まずは、「つれづれなるままに」というブログの
今思う・・・松原みきさん」という記事。





以下転載〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

松原みきさんの応援サイトに刻まれたメッセージ。
心に沁みてコピーしておきましたが、サイトが閉鎖されてしまい、折に触れ読み返せるようにここに転載。

頑張り屋さん / 仕事仲間の長老達

---頑張り屋さん---
松原みきさん、君は本当に頑張り屋さんでした。
君には仕事上の保護者(男女を問わず年長のサポーター達)がたくさんいました。僕たちはその中でも長い期間にわたって君と一緒に仕事をしてきた、いわば長老ともいえる保護者A,Bの2名です。
とても迷いましたが、ここに寄せられた多くの追悼メッセージを拝見して、僕たちが仕事を通じて知っている君についてお伝えしようと思いました。
二人とも、もちろん君の大ファンだからです。

---とても大切に---
君は願っていました。ファンの人達には、歌い手だった時のイメージで覚えていて欲しいと。そのイメージを裏切りたくないと言っていました。作曲家になってからもいくつかのTV番組の出演依頼がありましたが、とても丁寧にお断りしていましたね。
君はとてもファンを大切にしていました。

---デビュー当時のままで---
君は「あの頃の服が、今も着られます」と言っていましたね。
プロポーションはデビュー当時のままでも、君は遙かに素敵に美しく輝いた女性に成長していました。

---体育会系そして元気印---
ある音楽関係者が、とても楽しそうに「松原みきさんの仕事の仕方って体育会系ですね」と言いました。 まさしく!メロディを作り出して行くときの集中力と、元気で真っ直ぐな生き方は君の干支そのままでした。
でも、たった一度だけですが、本当に元気のない声を電話で聞いたことがあります。君が愛犬グレゴリー(ウエスト・ハイランド・ホワイト・テリア)を失ったときでした。

---長女気質---
作曲家になってからは超多忙な毎日でしたが、それでも時間を割いて後輩達の相談にのってあげていましたね。人としても音楽家としても女性の友人、ファンが多かったです。こんな姉がいたらいいのにと思います。

---ウイークポイント---
リンゴ・アレルギー
リンゴが入っている可能性があるのでカレーもパスでした。
そうそうもう一つ、いつもミネラルウォーターのキャップがなかなか開けられませんでしたね。鍵盤を打つタッチは結構強いのですが・・・たしか推定握力は8kgとか。

---君が現れると---
その場がスタジオでもレストランでも、何とも言えずふわっと明るくなります。オーラと言うほど仰々しくはないのです。
そして君が微笑むと・・・それは神様が地上に使わした天使の微笑みでした。

---けじめの挨拶---
君は3年前の年末、音楽の仕事を辞めるにあたり、けじめの挨拶と言うことであらわれました。その時は君自身の体調が原因であることを、まったく気づかせませんでした。
そして別れ際に「健康に気をつけて、頑張って下さいねっ」と相手を励まし、深々と頭を下げて颯爽と歩いて行きました。そのときが最後でした。
自分に置き換えた時、「果たして彼女と同じように出来ただろうか?」
脱帽です。そして、君の健気さにとても心が痛みます。

---もう会えないけれど---
君は人の倍以上の速度、濃密さで生きたと思います。そして、たくさんの素敵な歌や作品を残しました。ファンの方達からのこれだけの心のこもった哀悼のメッセージが、それを証明しています。
50才を過ぎた頃の君が(その時には、きっと愛らしい目尻の小じわをたずさえて)歌うのを聴きたかったけれど、それは叶いませんでした。
でも、これからは君と出会ったそれぞれの人達の想い出に寄り添って、元気にそばにいてくれますね。

---頑張り屋さん---
とても素敵な家庭で育った人だと思います。
才能と美しさに恵まれ、しかも聡明で優しい人です。
そして、君はたくさんの人達に愛されました。
君と出会えてとても幸せでした。
ご家族の慈しみ深い愛情に見守られて、与えられた時間を最後まで全うしたことと思います。力一杯よく頑張りました。さすがです。敬服します。
ずっとずっと覚えています。

---最後になりましたが---
どれだけ深く悲しまれたことか・・・・・
ご家族のお気持ちが癒されることを、心から願い祈っています。


---追伸 管理人様---
長い文章をお許し下さい。「松原みき応援の部屋」の運営をとても有り難く感謝しています。

彼女はこのサイトを見ていました。


転載終わり〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜





次は、「人生の一日」というブログの
「真夜中のドア〜Stay With Me 」松原みきの思い出
という記事。





以下転載〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


実は自分と松原みきはちよっとした知り合いだった。

笑うと可愛いが、そうでないときはちょっと怖い感じのする子だった。人を寄せ付けないような部分も確かにあったと思う。

松原みきと最後に会ったのがいつだったのか、昔の日記を調べたりしたのだが、はっきりとした日まではわからない。おそらくは97年の年末か98年のはじめだったと思う。

有楽町マリオンの10階あたりのエスカレーターですれ違ったのだ。上のほうから「店長〜」と呼ぶ声が聞こえたので声の先を見上げたら彼女が笑顔で手を振ってた。自分も手を降り返してあいさつしてそれでおしまいである。

ひにちではっきりわかるのは97年の夏の日だ。東京駅大丸の地下だったと思う。

ひとりで大きな荷物をカートで転がしていた。
「大阪?」と聞くと「うん」と答えて笑顔で去っていった。
「荷物、引いてあげようか?」という言葉を飲み込んだ。
少し前に同じような状況のときにそう申し出たらやんわりと断わられたからだ。
今にして思えばあの中に入っていたのはキーボードだったのだろう。


彼女に最初にあったのは五反田だった。ジャズ歌手の笈田敏夫さんの知り合いの某放送局の子会社の社員と一緒にやってきたときに紹介された。もちろん自分は彼女のことを歌手松原みきと知っていた。

ヤクルトと阪神が優勝を争っていたときだから1991年の秋のことである。
「レコード会社と(歌手)契約が切れてこれからは作曲家として活動したい」というようなこと(すでに活動はしていたのかもしれない)を言っていた。

もっとも、彼女と差し向かいで話をした回数はほんの数回でしかない。きっと2・3回くらいだと思う。

あるとき、自分が渋谷地下の喫茶店でウトウトとしていたときに向かい側に人の座る気配がしたので目をあけたら笑顔の彼女が座っていたことがあった。

「作曲活動の方はどう?」と聞いたのだが彼女は「うーん・・・大変・・・」と言葉を一度切って「・・・曲が出来が良いとか、そういうことで褒められる世界じゃないし・・・」と言葉を濁した。さほど深刻そうな表情ではなかった。笑顔ではあった。

笑顔ではあったが、明らかに「それ以上聞くな」という雰囲気は漂っていた。で、深く立ち入ったことは聞かないほうがいいだろうと思い話題を変えた。

じゃ、なんの話をしたかというともっぱら音楽とか映画とかアニメの話だ。
ガンダムとかダーティーペアの話は避けたが。

話に熱中してきたときの彼女の喋りは典型的な大阪のオネーサンだった。
そうして「時間が来た」といってごく普通にさっさと立ち去ってゆく。
いつものように。

というのも、その前後いろいろなところで偶然に彼女に出くわしているからだ。記憶に残っているだけで銀座三愛の地下(マリー・クアントに自分の知り合いがいたからだが)、同じく銀座三愛の3階(ベネトンがあったころ)、目黒の駅前のパチンコ屋、下北沢の中古レコード店、御茶ノ水の大倉楽器、新宿のHMV、新宿新南口テラス・・・、向こうに連れがいたりこっちにいたりで挨拶程度のことが多かったが。

だからなのだが、最後に彼女に会った時もこれが最後になるとは露ほどにも思わずにいた。「またどこかで合うだろう」と勝手に決め付けていた。たぶん彼女もそうではなかったかと思う。

彼女にとって自分という存在は何かというと、結局きっと「煩くはない、知り合いのそのまた知り合い。とりあえず映画のことは詳しくてそっち方面では役に立つ」ぐらいの位置付けではなかったか。決して友人と呼べるようなものでもなかったのは事実だ。第一、東京の住所も電話番号も知らなかったし。

結局彼女には言い出せなかったが、実は自分は「元・松原みきファン」である。ザ・ベストテンに松原みきが登場したときにはテレビの前で正座して見入っていたくらいのファンである。シングル盤も持っていた。

彼女が体調を崩して大阪に戻ったままだということは人づてに聞いて知っていた。
真に奇妙なシンクロなのだが、自分が体調を悪化させて仙台に戻ったのが2001年の1月、そして帰京したのがその4月である。前後して彼女も帰阪していたことになる。
だから、そのことを耳にしたときも、彼女もまた自分のように復活できるだろうと確信していた。深く考えずにいた。


今、自分は作曲家としての「松原みき」の仕事についていろいろと調べている。おもしろいことがいろいろとわかった。

友人の娘が好きで歌っていた「おジャ魔女どれみ」の挿入曲が実は松原みきの作曲だったこと。

彼女が作曲家活動を開始してまもなくのころ(知り合った直後でもあるが)広井王子という人がプロデュースした「火星ガールズ」というガールグループに何曲かを作品提供しているのだが、中にはメンバーソロ曲がある。

とある(松原の)ファンサイトをみたところ、詳しくメンバー名と曲目が載っていて参考になった。しかし一曲だけ最後まで不明の曲があった。
岩倉かすみという声優さん(?)が歌った「抱きしめてOnly You」という曲だ。この岩倉かすみというの人が検索でなかなかヒットしない。
それで「火星ガールズ」で検索し直してみて「岩倉」でなく「若倉(わかくら)」の間違いであったことをはじめて知る。

若倉かすみ−正確には若倉歌純、なんとこの人も実は自分の知り合いだ。世田谷の店に来ていたお客だったのである。世間なんて意外に狭いものである。

いろいろと検索しているうちに若倉歌純さんが今でもタレント活動をしていることを知ったのは一昨日のことだ。


強引だが、ここで松原みきのCDの話にする。

名曲「真夜中のドア〜STAY WITH ME」を含む全16曲構成のベストアルバム。普通にCDショップで買えるもののなかで一番良いのは今でもこれだ、と思う。

昔、松原みきが自選した曲で組んだカセットオンリーのベストも出ていた。
本当はこちらを薦めたい気持ちではある。あるが、なかなか入手困難で。
中には未収録のトラックもあるのでCDの曲順を変えて再現することも出来ない。
結局、アンソロジーシリーズの中の一枚ではあるがこちらのCDのほうが良いのではないかと思う。

大村雅朗がアレンジを担当した曲がシングルでヒットした「ニートな午後3時」一曲のみというのがちょっと淋しいが。

それでも歌手松原みきが目指していたものがただ単に気分としての洋楽指向、jazz指向ではなくて、かなりベーシックな部分が頑丈だったことは今聞いてもわかる。
例えて言えば、広範な音楽の海を泳ぎきるのだという決意で建造された、荒波にも耐えるしっかりとしてしかもスマートなつくりの外洋船のような、と言うべきか。

担当のディレクターが「レコーディング自体はとっても楽でした」といっていたほどの抜群の歌唱力と表現力の豊かさ。80年代というまだ音楽業界自体が未分化な時代ゆえに「アイドル歌手」枠で売り出され、一発屋扱いのまま作曲家に転身した松原みきだが、もし今だったらもう少しまともに評価されていただろうと思うとものすごく残念である。


転載終わり〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜






とまぁ、こんな感じでいくつか
松原みきの素顔がネット上に残っているのが
ファンとしては嬉しい!


そして最後は、「メトロの音辞苑 あの歌の裏話と
天才ヒットメーカ&最新ヒット曲!」というブログの
真夜中のドア、Gu-Guガンモ。松原みき 壮絶闘病死!
という記事。





以下転載〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


平成16年(2004)の
今日
10月7日は
シンガーソングライター
松原みき が 亡くなった日

晩年 音楽を 捨て去り ひっそりと 闘病していた
彼女の あまりにも 短すぎる その生涯とは?

松原みき の 母は 元ジャズ歌手
そんな母の影響から 音楽に 興味を持ち
17歳で 歌手に なる為に 大阪から 上京

ライブハウスや 米軍キャンプや
ジャズ喫茶で 歌っていました

たちまち 歌のうまさは 評判となり
プロ歌手としての デビューが 決まりました

昭和54年11月に
【真夜中のドア〜Stay With Me】
で デビュー

松原みき この時
19歳

(中略)

デビュー曲にして
30万枚以上を 売り上げ 数々の 賞を 総ナメにします

昭和56年には
資生堂春の キャンペーン ソング
【ニートな午後3時】
を 歌い 人気を 不動の物として
学園祭にも 数々出演

そんな
松原みき は アニメソングを歌い
新境地を拓きます

それが
昭和59年から 放送された
アニメ
【Gu-Guガンモ】

松原みき は
スージー・松原
の 芸名で
オープニング と エンディング 両方 歌います

特に オープニング の
【ガンモ・ドキッ!】
は 人気でした


(中略)


昭和62年には レコード会社を移籍
そして 劇場版 アニメ
【ダーテイペア】
の 主題歌を 歌い
話題になります


そして結婚 やがて作曲家としても 活躍
特に アニメソングを 数々作曲し
声優にも 多く楽曲を 提供

その中に
国府田マリ子 が いて
彼女に 提供した
【雨のちスペシャル】
が NHKみんなのうた に なり
人気となり 繰り返し 再放送されました

さらに
【ご近所物語】

【おじゃ魔女ドレミ】
の 主題歌 挿入歌も 手掛けました

しかし そんな
松原みき は ある日 友人知人に
こんな メールを 送ります

(実は 私 理由あって 音楽を 続けていけなくなりました
電話 携帯メール等 解約してしまいます
ですから 返事は 返さなくて 結構ですよ
悔いの無い 人生を 送ってくださいね)

このメールを 送った直後 関係者にも 居場所を 告げず 姿を消します

実は その時
松原みきは
子宮頸癌に 蝕まれていたのです

そして 彼女は
楽譜や レコードを 全て 燃やし
音楽を 捨てます

そして 唯一 いとこに こんな メールを しています

(歌を 歌っていた時代 曲を作っていた 時代の 過去は もう 忘れてください
たぶん 私の、この時代の 生き様が 病気を生んだんだよね だから 自分の中で もう リセットしたのです)

大好きな 音楽を 断ち切り ひっそりと 闘病を 続けた 松原みき

しかし 余命3ヶ月を 宣告されます

残された 日々を
家族と 過ごします

17歳で 親元を 離れ 久々 両親と過ごし まるで 赤ちゃん返りをしたうように 両親に 甘えたと いいます

そして 泣き言を 言わなかった
みき が 父に 本音を漏らします

(私 色々としたいことが まだ 心の中では 残ってるんだから 今 死ぬのは 嫌だ)

麻酔で 朦朧とすると うわ言 で 音楽の話を していたと いいます

音楽と決別し
姿を消してから
3年

平成16年(2004)
の 今日
10月7日
44歳で 天国へ旅立ちました

亡くなる前
みき は 夫に
こんな メールをしています

(病気が わかって 入院してから 初めて 色々な事に 目が覚めた そんな 気がします
出来ることなら 健康に なって
たくさん お返ししたいよ
健康に なりたい
そして もう一度 人生を 再スタート させたい)

松原みき の 死が 公表されたのは
2か月後の
12月の事でした

亡くなってから
6年

昨年 アルバムが 発売される等
今 また 注目を 浴びています


転載終わり〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜





ということで今回は、
私の大好きな松原みきのことでした。


人生は、いつまでも続くと思ってしまう・・・
だが、いつ終わりがきてもおかしくない・・・


いつかは終わるのだが、
それがいつなのか分からないという安心感・・・


しかし、あなたの人生は残り20年だと言われても
それはそれで苦しいではないか・・・


松原みきの話から、
ふとこんなことを考えてしまった年末の日曜だった。


恐らく、歌手時代よりも作曲家時代の彼女の方が
業界では有名だったと思う。


歌手から作曲家への転身というのは、
ありそうだが、なかなかないパターンである。


歌手という職業を起点として、
作曲家という新境地を切り開いた松原みき。


同じ音楽の世界でも、職業はいろいろあるのだ。
つまり、チャンスもそれだけあるということなんだ。


歌手という一つのことに拘るのも人生だが、
視点を変えて作曲家に転身するのも人生なのだ・・・


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あなたは、一つのことにこだわるタイプですか?
それとも視点を変えて転身できるタイプですか?
今日もあなたの商売が大繁盛しますように♪



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プロフィール

linkagemic

こんにちは。マーケティングコンサルタントの長谷川博之です。中小企業の業績向上を実現するには、何をどうしたらいいのかをプロの視点で紹介します。
新潟県三条市生まれ。
昔はジャズギタリスト、今はマーケティングコンサルタント。
2002年、同文舘出版株式会社より「あなたの思い通りにお客さんを“買う気”にさせる法」を上梓。「小手先のテクニック」「男の広告・女の広告」がブームに。

現在、株式会社リンケージM.Iコンサルティング代表取締役。ギタリスト評論家。

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